褶曲構造と断層について
(3) 内山層の堆積後に活動した断層
明らかに内山層を切っているので、内山層堆積後の活動であることは確かですが、都沢断層のように、南北性(SW-NE)に近いものと、残りの2断層のように東西方向のものがあります。いずれも、断層の規模は大きくはありません。
【 都沢断層(みやこざわ・だんそう)】
都沢中流部の1020m二股から臼石荘付近を抜け、大野沢支流の第3・4沢上流部に至る「SW-NE方向」の断層です。都沢付近では、わずかに右横ずれ断層ですが、落差は解消されます。
①大野沢支流第4沢で認められた内山層の基底礫岩層が、第3沢では見られないという不連続があること、②大野沢支流第3沢の化石情報(下部瀬林層と内山層の化石)から、間の地層の欠如があることの、2つの事実から推定断した断層です。
都沢の蛇紋岩帯断層も切っていますが、蛇紋岩分布のずれや、前述の矛盾をうまく説明してくれる、比較的、確かな証拠も多い断層です。
断層を境に、地層の分布や褶曲構造の軸は、多少ずれている程度で、寧ろ、相対的に西側ブロックが、垂直方向に上昇したと考えられます。北側ほど落差は大きく、最大50~100mあります。南側の都沢では、落差が解消されていると思われます。
断層の活動時期は、内山層堆積後で、内山層の隆起に伴う活動と連動していたと考えられます。
【 茨口沢断層(ばらぐちざわ・だんそう)】
茨口沢から大野沢支流の第7沢・第6沢を経て大上峠に至り、四方原山-大上峠断層に収束するES-NW(東西に近い)方向の断層です。
最大落差は、大野沢中流部で100~150mと、上部瀬林層の層厚相当分は越えないだろうと推測しています。断層の両端で、落差は解消されています。
また、50~80mほどの右横ずれ断層としての性格もあるのではないかと考えられます。
断層を推定した根拠は、①茨口沢の白井層背斜構造の東翼で、その一部を欠くこと、
②大野沢上流部で、シダ植物化石層準(下部瀬林層最上部)と白井層にずれがあること、③内山層の基底礫岩層が不連続であることなどです。
活動時期は、内山層堆積後です。
特に、大野沢上流部の「乙女ノ滝断層と交差する」地点は、地質図では単純化して示してありますが、周辺は小さな断層が入りくんで、複雑な構造をしています。難しい構造解釈です。(詳しくは、第5章の(7)大野沢最上流部を参照)
また、地質図では、南北性の3つの断層(乙女ノ滝断層・鍵掛沢断層・大野沢断層)が、茨口沢断層によって微妙にずれていると表現していますが、これは図幅上の解釈であって、実際の路頭で詳細に確認されたわけではありません。
【 馬返断層(まかえし・断層)】
馬返(小字名:(う)まかえし)から、古谷集落北側の沢を経て、矢沢断層に収束していると考えている小さな断層です。
断層は、古谷集落北側の沢付近で、三山層の一部が欠如していると考えられ、その欠如部分に対して推定したものです。但し、せいぜい落差は、50m以内。腰越沢の地質柱状図を見ると、瀬林層上部層の欠如の証拠は、ほとんど認められないので、断層による落差は、ほとんど無いと思われるので、西側に向かい、三山層が欠如して薄くなっていると思われます。
都沢断層と矢沢断層に挟まれた、この小断層は、西側の一部・南側が相対的に上昇している程度の規模なので、内山層堆積後、内山層の隆起に関連した都沢断層の活動の時期と同じだと考えています。また、石英閃緑岩の貫入との関連があるかもしれません。
これまで見てきた各断層の活動した時期をまとめると、以下のようになるのではないかと推定しています。
【編集後記】
今日の回で、私たちが調査してきた内容の観察記録や推理したことは、一応、終わります。これらの集大成として、地質図がありますが、既に説明の都合で、登場しています。
次回は、ちょっと冒険ですが、『地史』を風景画のようにして想像(創造の意味もあり)した図版を使って、まとめてみようと思います。(おとんとろ)