北海道での青春

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佐久の地質調査物語(都沢付近のまとめ)

     都沢付近のまとめ

 地質構造の解明は、様々な情報と証拠となる事実を集めながら、明らかにしていく過程ですが、間物沢川と都沢の岩相の違いは、「三山層のゆくえ」と「隣接する瀬林層下部層の謎」で述べたように、以下のような事情があるとわかりました。 

 

① 山中地域白亜系の東側分布域(群馬県や埼玉県)では、「三山層」が発達している。    

三山層は深海相を示す厚い黒色頁岩層で特徴付けられ、堆積盆が最も拡大した時の堆積環境を示している。しかし、佐久地域では、あまり発達していない。
 ストライプ層準や級化層理、混濁流堆積物層が見られることから、大陸棚斜面のような堆積環境であったのではないかと考えられる。

 

② 瀬林層も、東側分布域と比較すると、あまり発達せず、しかも、一部、陸成層もある。堆積環境は、【A】陸域に近い相・【B】沖合相・【C】さらに沖合相の、3つの相が区分できる。都沢は、【A】の陸域に近い相で、瀬林層上部層を欠いていた。

 

③ 「閃緑岩の大礫」を含む層準は、類似の花崗岩の大礫を含む層準と共に、瀬林層と三山層の両方にあった。大礫を含む層準は、鍵層(示準)には使えない。

 

④(佐久地域の三山層堆積盆は、石堂層堆積盆を大きく越えることはなかったと推定するが、)三山層は、今日露出している面積は広い。都沢を始め、林道・大日向-日影線や大野沢など、広い範囲に分布し、褶曲構造を良く残している。

 

 そこで、ひとまずの「まとめ」として、都沢付近の地質を説明したいと思います。
 「都沢~腰越沢のルートマップ」・「都沢地質柱状図」も参照してください。

 

(1)地質概要

 都沢の標高1020m付近二股に、都沢断層があり、これより下流側と上流側で、石堂層・瀬林層下部層・三山層が、繰り返し観察できます。下流側での石堂層は、蛇紋岩帯断層(主)と都沢断層(従)によって切られ、下位の地層は見られません。
 また、「三山層のゆくえ」で考察したように、瀬林層上部層は堆積していません。

 

(2)石堂層(いしどうそう)

 都沢の東ナカヤ沢・標高1270m付近では、石堂層の基底礫岩層が、不整合関係で、御座山(おぐらやま)層群を覆っている様子が観察できます。
 不整合面の下は、黄緑色~黄土色を帯びた非常に硬い結晶質の中粒砂岩で、これまでの南佐久地方の秩父帯の調査で、帯びた色の特徴から『ウグイス』と名付けた結晶質砂岩と同質です。基底礫岩層の露頭幅は3mほどで、礫種はチャートが主体ですが、「ウグイス」と呼ぶ結晶質砂岩の礫も含まれていました。
 これより約5m下流にも礫岩層の露頭があります。ここでは、礫岩から粗粒砂岩へと、粒度が小さくなりながら漸移する級化層理が確認できたので、地層の上下関係は確実です。付近は連続した滑滝(なめたき)になっていて、地層の走向は、ほぼ東西方向で、傾斜は、垂直~80°Nと、いくぶん北落ちです。
 さらに下流では、砂質の黒色頁岩を主体とし、暗灰色で塊状の砂岩を挟む砂泥互層の露頭が点々と続きます。
 調査(4.Oct.1987)で、東ナカヤ沢の一本西側の沢の標高1200m付近で、二枚貝の化石を見つけました。


 一方、蛇紋岩帯断層を挟んだ下流側です。標高1020m二股では、砂防堰堤のある右岸に、砂質の黒色頁岩層が見られます。この岩相は、厳密に粒度分類をすれば、細粒~極細粒砂岩ですが、剥離性があり、小さな塊に割れる頁岩の特徴を残しているので、砂質な黒色頁岩と分類しました。   
 左岸には、蛇紋岩が露出していて、石堂層との境界は川底にありそうですが、確認できません。また、上流側ブロックでは確認できた基底礫岩層や砂岩・礫岩層など、石堂層下部に相当する層準が認められません。ちょうど、周辺に蛇紋岩帯断層が推定できるので、下部層準は、断層により失われていると思われます。

 少し下流側では、暗灰色の細粒~中粒砂岩と黒色頁岩の互層が多くなります。そして、標高1010m付近では、砂泥互層の中の2層準にチャートの円礫(1~2cmφ)を含む薄い礫岩層が見られ、いずれも礫岩層の上位に、海棲二枚貝の化石層準がありました。完全なものは少なく、鑑定はできませんでした。
 この後、下流側では、しばらく露頭がなく、化石層準を石堂層の最上部としました。
一般的な走向・傾斜は、N50~60°W・60~70°Nです。

 


(3)瀬林層下部層(かぶせばやしそう・かぶそう)

 上流側ブロックの1160m二股で、川底に、やや青味を帯びた灰色の細粒~中粒の砂岩層が見られました。珪質で硬く、層理面は不明瞭です。間物沢川で、瀬林層下部に特徴的に見られた岩相です。
 標高1130m二股付近(地図上のガレ場)には、結晶質中粒砂岩の礫(最大15cmφ)
や白色・灰色・黒色チャートの角礫を含む礫岩層が露出していました。足場が悪く、一部しか観察できません。この尾根直下には、一辺が3~5mにもなる巨大な岩塊が崩れてきていて、沢水は伏流していました。
 ちなみに、標高1100m付近には、流紋岩の岩脈があり、川底にきれいな滑滝を形成しています。左岸は板状節理が、右岸は柱状節理が見られます。流紋岩体との接触部分は確認できず、熱変成の範囲が、どの程度まで及ぶかわかりません。この流紋岩体と上流の礫岩層の間に、下部瀬林層と三山層の境があると推定しました。
 (その後の調査から、流紋岩体と礫岩の崩れの間は、「四方原-大上峠断層」が抜けていることが明らかになりました。白亜系の褶曲構造を形成する途中から、新第三紀の内山層の堆積後まで活動したと推定される大断層です。) 
 走向と傾斜は、「EW・50°N、N50°W・50°N」等と北落ちを示すものと、「N70°W・62°S」と、南落ちを示すデーターがあり、安定しません。もともと層理面が不明瞭なので、走向・傾斜は参考として扱った方が良いと思われます。

 

 一方、下流側ブロックでは、粗粒砂岩や礫岩が発達しています。全体で、3層準が認められました。この内、最上位のものは、層厚が20mと一番厚く、都沢が北西に流路を変える標高990m付近では、川幅が極端に狭まって、渓谷を作っています。走向・傾斜は、「N40~50°W・30~40°N」と、北落ち傾斜は緩くなっていますが、走向は、石堂層や三山層と調和的です。
 下流側には、上流側でわずかに確認できた珪質砂岩層は認められませんでした。
 上流側の下部瀬林層は、都沢の東側に位置するイタドリ沢に延びる層準と、一連のものと考えています。

 つまり、西側ほど粗粒岩・礫岩層が多くなり、かつ、珪質砂岩層を欠き、上部瀬林層が堆積しなかったということは、現在の位置関係で、都沢の西側、および南側ほど、より陸域に近い堆積環境になっていたと考えられます。

 これは、後述する石堂層の後背地の堆積環境とも矛盾しません。佐久地域の白亜系堆積盆が、山中地域白亜系の西端に当たり、より新しい時代の地層ほど、北側に分布していることとも関連があると考えられます。堆積盆が北側に移動していったと思われます。

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都沢・標高990m付近の渓谷

 【写真の説明】 下部瀬林層が渓谷をつくる

 都沢の流路が変わる部分に注目すると、瀬林層の分布と重なる。砂礫などの粗粒岩層や珪質砂岩層は、風化・浸食に強い。
 抜井川本流では、滝を作る「造瀑層」になっている。都沢中流部では、極端に川幅が狭まり、渓谷を作っている。写真の手前(下流)側には、一番厚い礫岩層があり、南から流れてきた沢は、突然、北西に流れを変え、地層の走向に沿って流れている。             

                                 (都沢中流)

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腰越沢~都沢のルートマップ

 

【編集後記】

 紙面(別に決まっているわけではありませんが・・・)の都合で、「都沢付近のまとめ」は、2回に分けます。

 山中地域白亜系を観察する時、比較的、露頭がよく観察できるという意味に加えて、地層の走向に比較的垂直に近いルートで観察できるので、効率よく観察できる条件を備えています。ちょうど、流星群を観察する時、月が新月で明かりがないので好条件ですというようなわけです。

 ただし、「石堂層の化石というと、抜井川本流の石堂橋付近の崖から産出したものが多く記載されています」が、都沢では、保存の良い化石は少ないです。石堂橋付近の崖の化石層準については、かなり後の方で話題にします。    (おとんとろ)